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鍼灸修行記

私の鍼灸修行記

よく患者さんから「なぜ鍼灸を始めたんですか?」「中国ではどんなことを学ばれたんですか?」「中国ではどのように生活していたんですか?」とご質問をいただくことがあります。

時間があるときに少し私の留学体験話などをすると、大変興味をもっていただき「もっと聞きたい!」と言っていただくことが多く、せっかくなので私の鍼灸修行、そして鍼灸を始めたルーツなどについて、ご紹介しようと思います。

エッセイやルポタージュのような感覚で、楽しみながらお読みいただければ幸いです。

大叔母さんの特別講義

私の大叔母は歯科医師をしていまして、実家の2階で歯科医院を経営していました。 自分で言うのもなんですが、子供のころの私は非常に成績優秀でして、大叔母のお気に入りでした。その大叔母が、私によく医学の講義をしてくれました。当時、私はまだ10歳。それなのに大学生にするような講義内容で、西洋医学の解剖学や生理学などだけでなく、東洋医学の病気の診察方法なども教えてくれました。

成績優秀者(自分で言っちゃう)だった私ですが、さすがに大学生対象のような医学の講義はちんぷんかんぷんで、目を白黒させながら大叔母の話を聞いていました。 大抵のことは右から左へと流れていってしまいましたが、その中でも、今でもはっきりと覚えている言葉があります。 それは「医学の最高峰は不老不死」という言葉でした。

まだ小学生だった私は素直に「そんなすごい世界があるんだ!!」と思いました。 そして、その言葉は今でも私の治療の指標、最終目標となっています。

一通り講義し終わった大叔母は私にこう言いました。 「私が今まで講義した内容を明日からお前なりに実践しなさい」『え?』 その時は、この人小学生相手に何無茶ぶりしてんだ……と思いましたが、大叔母の有無を言わさぬ迫力に負けて『やってみます』と承諾しました。

そして私は、学校の図書館の本などで大叔母の講義内容を復習して、最低限ではありますが自分なりに人体の全体像を把握しました。 東洋医学の『望・聞・問・切診』は問診を除いた『望・聞・切診』を周囲の全ての事象に対して行い始めました。 私なりに実践した結果を数回、大叔母に聞いて指導してもらい、自分なりの方向性を決めました。

不老(不死)の技術に関しては自己流ではありますが、人以外の生き物、植物、動物などに気功(治療)を行っていました。 これらのことを10歳の頃からほぼ毎日、40年ほど続けてきた経験が、今の治療知識、技術の土台になっています。

高校生のときの出会い

時は流れ、高校生になった私は、肺気胸を発症してしまいました。 肺気胸とは肺に穴が空いてしまう病気で、若い男性がなりやすい病です。かの嵐の相葉雅紀さんや、俳優の佐藤健さんもかかったことがあり、通称「イケメン病」なんて呼ばれています。……あ、私がイケメンかどうかということは、皆様のご判断にお任せいたしますね。

さて、高校生にして肺気胸を患った私は、1週間ほどずっと痛みに耐え続けていました。 自分ではそこまで致命的な痛みではないし、ほっとけばそのうち治るだろうと高を括っていました。 ところが、痛みは強くなることもありませんでしたが、弱くもならず、流石にちょっと不味いかなと思い、受診したところ肺気胸だと発覚したわけです。

このとき担当してくださった主治医のT先生には「我慢強いにもほどがあるだろう!お前みたいな奴は見たことがない!!」と、めちゃくちゃに怒られました。 どうやら私の肺には腱があり、肺が一定以上縮むのを防いでくれていたらしいのですが、「この腱がなかったら下手したら死んでたぞ!」と、それはもう本当に理不尽なくらい怒られました。 本当に死ぬわけではないのですが、将来、私が少しは慎重に行動するようにと強めに怒ってくれたのでしょう。 まあ、治療する側に立った今ならT先生の気持ちも理解できます。

このT先生は大変に口が悪く、治療中にも散々に怒られ続けましたが、それでもなぜか可愛がってくれて、診察の時間などを利用して大叔母のように私に医学のことを色々教えてくれました。 T先生には直接言ったことはありませんでしたが、入院中に何かのきっかけで私が大叔母の教えを毎日実践しているのに感づかれたのかなと思います。

そして、大叔母が私の記憶に焼き付けた言葉のように、T先生も私にとって非常に印象的な言葉を残してくれました。
「一流の医者になりたいなら、機械に頼った治療はするな!」
という言葉でした。 一流の医者ならば、何時如何なる状況でも、例え機械などがなくても、己の知識と技術と経験、そして感覚、勘を頼りに治療できて然るべき、と軍医を経験したことのあるT先生はそうおっしゃいました。

口は悪いT先生でしたが、この言葉を聞いて、私は「全くおっしゃる通り!」と心の中で敬服していました。 そうして、親戚に医師が多かったことと、医学に触れることが多かった私は、自然と医学の道へと進むこととなります。

赤門鍼灸柔整専門学校時代の中国鍼灸との衝撃の出会い

私は鍼灸師を目指して、仙台の赤門鍼灸柔整専門学校に通い始めました。 なぜ鍼灸師かというと、現時点では西洋医学より東洋医学の方が汎用性が高い治療ができること。 そしてやはり決め手は大叔母の「不老不死」や、高校時代にお世話になったT先生の「機械に頼らない治療」という言葉が強烈な印象として心に刻まれており、西洋医学よりも東洋医学、中でも中医学に興味を引かれたからだと思います。

在学中、2年生のときに、中国研修で北京を訪れました。 鍼灸といえば中医学、中医学といえば中国、やはり一度は中医学の本場中国に行って見識を広げてこないとね。 という感じで、最初はけっこう軽いノリでした。

そこで老中医という、中国国家が認定した鍼灸名医達の治療を体験し、衝撃を受けました。 中でもZ老師(中国での先生の呼称)の治療技術と効果は群を抜いていました。 両足の“太谿穴”に鍼を打たれたのですが、イナズマのような衝撃が足裏全体にバリバリッと走り、得気の衝撃と共に体中の経絡を気が駆け巡り、「鍼を効かせるとはこういうことか!」と身をもって体験しました。

特に左の太谿穴の突起は凄まじく、鍼を抜いた後も続き、少しでも足を地面に触れるとバリバリとした電撃様の得気が左足裏から左ふくらはぎ全体に響きました。 そのため、3日ほどはまともに歩くことができませんでした。

ただし、治療効果も凄まじく、私は高校のときの肺気胸の影響で、ずっと一気飲みができなかったのですが、Z老師の治療を3回ほど受けたところ、なんと一気飲みができるようになってしまったんです。

機械に頼らずに、こんなに明確に効果を出せる治療が存在しているとは……! ものすごい衝撃と感動で、興奮し、私は絶対に中国に留学して鍼灸を学びたい!と意気込みました。

私が感動したのは鍼灸の技術や効果だけではありませんでした。 老中医達の心身の健康状態が非常に良く、気力(生命力)が高いと感じたのです。 肌ツヤは良いし、病気とは無縁という風貌でピンピンしており、まさに「養生」のお手本のような姿でした。

中国ってすごい! 中国人ってやばい!! 中国4,000年の歴史って奥が深すぎる!!! そう思いました。

帰国後、卒業するまでの間も、国内のさまざまな勉強会に参加したり、色々回って研究したりしたのですが、どれもしっくりこず、やはり中国でなければ、という思いは強くなっていきました。

いざ、中国へ!

専門学校を卒業し、私は念願の中国留学へと旅立ちました。 最初は知人のツテを辿って北京へと飛び、そこで先行して留学していた日本人を頼って学校や老中医の情報を得たりして、行動していました。

でも、どこに行っても、誰に教わっても「結局日本人(外国人)としてしか接してもらえない」ということを肌で感じていました。 当然といえば当然です。言葉もままならず、文化や生活習慣はもちろん、価値観や考え方まで異なる外国人に、中国に古くから伝わる伝統の中医学(鍼灸)を教えたところでその真髄は分かりっこない。そんな中国の人々の本音がひしひしと伝わってくるのを何度も感じました。

このままじゃ、表面的な留学、名目だけの留学で終わる― そう直感しました。

そこで、私は日本人のつながりを頼らずに、自力で師匠(老師)を探すことにしたのです。 このとき私は語学大学に在籍していたのですが、中国語を勉強しながら師匠を探すのはなかなか骨が折れました。

そして、北京中を探し続けてついに私は、一人の太極拳の老師と出会うことになります。この出会いが、私の運命を大きく変えました。

運命の導き!?老師との強力な縁

もともと太極拳は習うつもりでした。なぜなら、中医学において「気(生命エネルギー)」とは根幹を成すもので、気功を習得することは避けて通れないものだったからです。 太極拳で気功を学びながら、中医学について、鍼灸についても学びたいと思っていたのですが、ここで思わぬ縁に恵まれました。

なんと、このY老師は中国五大太極拳の一つと言われるS氏太極拳の第七代正統継承者だったのです!!!

近況をお聞きすると、それまで一緒に暮らしていた姪御さんが日本へ行ってしまい、アパートを探している真っ最中だと言うのです。 その頃はちょうど、日本から留学で来ていた太極拳の学生がみんな帰国したばかりでした。

太極拳と中医学(鍼灸)を学びたい私と、(中国人の)弟子がおらず住まいを探していた老師の需要がマッチしました。 Y老師自身からも「お前と一緒に住んで、太極拳や中医学を始めとする中国文化全般を教えてやる」と声を掛けていただきました。 これは何かの縁に違いない、そう確信しました。

ただし、それから決断するまでに1週間ほど悩み抜きました。 Y老師以上の条件を有する人は他に見つからないだろう、ということは十分に理解していました。

一番の懸念材料は、その当時、私の中国語力が大したレベルではなく、老師と意思の疎通を図るのがかなり困難だったこと。 老師の話を聞くのも一苦労、ましてや話す中国語は片言でした。 しかも、通じない…… 加えて、中国人の老師特有の個性の強さで練習の度に振り回されていましたので、Y老師と一緒に住むというのはさながら虎の巣穴に飛び込む心境でした。 これが毎日続いたとしたら果たして心身が耐えられるだろうか? でも、通いでは大したことは教えてもらえない…… いくら考えたところで他に選択肢は存在せず、最後は清水の舞台から飛び降りるつもりでY老師と一緒に住むことを決めたのですが、それが長い長い「生き地獄生活」の始まりでした。

生き地獄のようなスパルタ住み込み修行

かくして始まった住み込み修行。
これが、本当に本当に「生き地獄」のような日々でした。
老師は、私に「お前は先ずは中国人になれ」と言いました。
「中国人を超えろ」とも。
これは、すなわち太極拳や中医学を教える前に「日本人だからしょうがない」という妥協は一切せずに、中国人(の学生)としての当たり前を叩きこむ、ということを意味していました。

まず、老師は私に完璧なネイティブレベルの中国語を要求しました。 中国留学の話をすると、よく「言葉はどうしたんですか?」と聞かれますが、専門学校時代から少しずつ勉強はしていました。 とは言え、程度は知れています。 留学して、語学大学に通うようになり、日常生活程度であれば問題無く送れるレベルまで話せるようにはなっていました。

しかし、老師が私に求めた語学レベルは、その程度のものでは全く通用しませんでした。 「とにかく敬語を喋れるようになれ。私(老師)に対して失礼だろう」と情け容赦なくビシバシ鍛えられました。

勉強しようにも、そもそも敬語に関する本というものが出版されていませんでしたので、老師に罵られながら体得するしかありませんでした。 言葉だけでなく、中国の文化全般や生活習慣についても、みっちり叩きこまれました。 「中国人になれ」と言った通り、老師は私が日本人らしくあることを許しませんでした。 中国人とまったく同じ行動、言動、思考方式、感情表現、習慣などを求めたのです。

一緒に住んでいるから、逃げ場なんてありませんでした。 私の部屋にだって、(一応、断りますが)ズカズカ入ってきます。 プライバシーなんて当然ありません。(まあ、これは中国では当たり前の光景ですが……)

料理だけはやってくれました(時折、嫌味は言われました……)が、他の家事や雑用はすべて引き受け、老師の実家への帰省についていったときなどは親戚の世話や客人のもてなしまでやっていました。

雑用と言えば思い出すのが、北京での引っ越しの日々です。 老師が風水や清潔感にこだわるので頻繁に引っ越しせざるを得ず、不定期にくるそのイベントに毎回打ちのめされていました。 最短で10日、最長でも2年ほどしか持たずに、通算10回以上引っ越しましたが、見学した部屋は1,000を軽く超え、北京の西以外、東南北のほとんどの地域は見て回りました。

今となっては笑い話にできますが、部屋探しの時は毎日両脚が棒になっても歩き回っていましたし、不動産屋さんなどの連絡は大体私が行っていましたから、当時はとにかく苦行でしかなかったです。

太極拳や中医学についてももちろん教えてくれましたが、これもまたとんでもなく厳しく、なんど叱責されたか分からないくらいです。 太極拳にしろ、中医学にしろ、専門用語の嵐なので中国語同様、こちらも老師に罵られながら体得するしかありませんでした。

とにかく毎日怒られ続ける日々で、最初の1~3年は、まさに「この世の生き地獄」だと思いながら過ごしていました。

半年に一度ほどビザの関係で日本に一時帰国していたのですが、その度に解放された気分になり、中国に行くときは「ああ、またあそこに戻るのか……」と陰鬱な気持ちになったのをよく覚えています。 実際、修行中にも数え切れないほど心が折れて「もう日本に帰ろう」と思いました。

最初の1~3年で、老師との大きな衝突は30回ほどありましたが、私が精神崩壊を起こそうがお構いなしに(老師曰く、甘ったれた)精神を徹底的に叩き潰され、その度に泣きながら自力で精神(自我)の修復、再構築を行っていました。

でも、老師の中国文化全般に対する知識、技術は一流以上で、加えて医者の家系ということもあり、それに何よりも「どうせ日本人だし」という妥協は一切せずにまっすぐ向き合ってくれるその姿勢に「この環境は他では絶対に得られない!!!」と自分を奮い立たせて歯を食いしばって耐え抜きました。

それから

4、5年経つと中国での生活にも慣れ始め、僅かばかりですが心にも余裕が出てきて、私の気持ちに変化が起こり始めました。 老師はお子様もいないし、北京には中国人の弟子もいない。 当時は「なんで私には日本人の弟子(学生)しかいないんだ、不便だ…、不幸だ…」とよく嘆いていました。 それを聞かされているうちに段々と考え方が変わっていきました。

考えてみればここは中国なんだから中国人の流儀に従って生活するのが当たり前だよな… 自分の心の中の当たり前、常識が変わった瞬間でした。 そこからは心機一転、老師に誠心誠意お仕えするため、先ずは一流の中国人のパシリになろうと本気で行動を改め始めました。 こうした私の心や行動の変化を受けて、老師も少しずつ私に気を許してくれるようになりました。

中国語には「付出多少,得到多少 (訳:No Pain, No Gain)」ということわざがあります。 今振り返ってみると、あの時思考を転換して見返りを求めず老師に尽くし始めて正解だったな、と心の底から思います。

6年目を過ぎると、さすがに私も慣れてきて、少なくとも「生き地獄」と悲鳴を上げることは少なくなってきました。中国人モードになることにも成功し、現地で「日本人だ」と言っても誰にも信じてもらえないくらい中国人と同化しました。
そして、老師も私の存在を認め、信頼してくれるようになりました。

8、9年目になると、ストレスなく過ごせるようになり、10年間の修行の日々を過ごし「そろそろ日本で治療院を開こうかな」と考えるようになりました。

学びに終わりはありませんので、これで修業が終わったということではありません。老師からも「いつ(中国に)帰ってくるんだ?」と毎日のように聞かれる日々です。 20歳ほど歳が離れているということもあり、本当の親子のような関係になりました。

修業時代、老師が占いの類が好きで、中国人の占い師によくみてもらいにいっていました。 みんな、老師と私をみるとこんなに縁がある2人も珍しい!!と一様に驚いていました。 前世で親子の縁があったと言われたこともありました。 生まれ変わりなど信じない方もいらっしゃるかもしれませんが、このような縁が元々あったからこそ、老師や周りの中国人にここまで気に入ってもらえたんだろうと思います。

日本に帰った私は開業し、中国で会得した技術や経験を生かして日本の皆さまへ中国伝統気功鍼灸の施術をおこなっています。

すべてのピースがはまった

私が掲げている施術方針は「心身を活性化し、老いない体を手に入れる」というものです。 これは、まさしく「不老」そのものであり、幼少期に大叔母から聞いた「不老不死」に相通ずるものがあります。

また、中医学、中国鍼灸の真髄は機械を使わずに「気(生命エネルギー)」を引き出し、増幅し、操ることで治療をおこないます。これも高校生のときに出会ったT先生の言葉と共鳴しています。

パズルのピースのように断片的だったさまざまな記憶や体験が、中国での修行から帰ってきて、パチパチとはまっていき、振り返れば振り返るほど「自分はこの道を歩むべくして歩んできたんだ」と感慨深く思います。

これからも、経験と研鑽を重ね、身体の不調やストレス、美容などに悩むすべての方のお役に立てるよう精進してまいります。

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